promise 《8》





 だから俺は毛布をのけて起き上がる。
 居間を出て、こっそり足音を忍ばせて上がるべく、階段脇の電気のスイッチを入れた。
 ぱちっと音がして、ぱっと電気が点る。
 ほんの今まで暗くした部屋にいたから、ほんのちょっとの明るさが目に沁みる。
 階段の前に立ったところで、手の甲で目を擦ってからまぶたを開けた。
 そしたら映りこんで来る。
 今まさに片足を乗せようとした階段の1段目の隅っこに落ちている銀色が。
 何だ? と思って膝を屈めて拾い上げた銀色は、輪っかの形をしていた。
 唐草模様に似た透かし彫りになってるそれは、俺の小指の先にも入らないだろうってサイズの小さな――きっと女の人用の指輪だと解る。
 ええっ、これって、例のやつじゃねえのか? 親父さんが落ち込む原因になったやつだろ、これ? だって、ここんちで女の人っつったら、ハヤトの母ちゃんだよな?
 旅先の露天風呂から上がって気付いた時に指に嵌っていなかった、って話だったよな。っつーことは、そもそも出掛ける前に落としてて、気付いたのがその時だったってことか?
 きっとそうだと思った俺は、一瞬背後を振り返った。
 親父さんに報せるか?
 いや、けど。俺が勝手に親父さん達の寝室に踏み込んでくのは礼儀として有り得ねえ。
 ならひとまずハヤトにこれ見せとくか。
 自分で自分に、おう、と頷いてから、俺は今度こそ階段を上がってく。
 気が急いてたんで、足音をひそめることすら忘れてた。
 

「ハヤト、起きろ!!!」
 って声と共に、ばたんと音をさせて開けた扉の向こうの空間は、予想外の明るさだった。
「ん?」
 って声と共に、俺を見上げる目があった。
「うわ、びっくりしたぜ。お前、寝てなかったのかよ」
 予想外にもハヤトは眠っていなかったらしい。
 さっき俺がこっから出てった時と同じ位置に座ったままで、ハヤトは膝の上に広げた雑誌を読んでたみたいだった。
「こっちこそびっくりした。下、静かだったからリュウジこそ寝てたと思ったのに」
 とか言いながら、俺を見上げて笑いかけてる整った顔立ち。
 うわ、またびっくりしたっての。びっくりするくらいハヤトってかっこいい……じゃねえって!!!
 思わずあわあわしそうになったところに問いかけられて救われた。
「それで? そんなに慌ててどうかした?」
「おう!!! あのな、ハヤト、これ、だよな?」
 近くに寄ってってしゃがみこんで、親指と人さし指でつまんだ銀色をハヤトの目の前に差し出した。ほれ、って感じで、それをハヤトが反射的に広げた掌にころんと載せる。
 ハヤトの両目が小さい輪っかに注がれる。
 掌に載っけた指輪をじっと見て、その後視線が俺を向いた。
「え――これ?」
「あのな、これ、階段とこに落ちてたんだぜ。サイズからしてハヤトの母ちゃんのだろ? でもって、これ、もしかしたら例のやつじゃねえ?」
「そうっぽいね。親父から聞いた特徴そのままだし、お袋が嵌めてるの見たことあるよ」
 くすっと笑ってハヤトが言った。
「なんだ。お袋、風呂上がりどころか家を出るときすでに落としてたんだ」
 俺もにいっと笑って言った。
「ハヤトの母ちゃん、そそっかしいけど運いいな」
「あはは。そうかも。お袋は、『親父と付き合うようになったのはうっかり人生を急いだから』って言ってるけど、当の親父は『それは人生最大の幸運だっただろう?』って返すし、それはお袋も否定してないから」
「わはは。何かいいな、お前んちって」
 ん、って頷くハヤトがすっげえ可愛い感じだった。ここんちの息子だからなんだな、って気がする。
 
 今すぐ親父さんに報告するか? ってハヤトに訊いたら、朝になってからでいいって言われた。どうせ寝ぼけてるから、だそうだ。
 ここらへんは親子だな。言うと怒るから黙っとくけど。
 再びふたりっきりのハヤトの部屋は、ひと安心ってな雰囲気が満ちていた。
 すっかりほっとしてたから、俺はごく自然にこの部屋での定位置みたくなってるテーブルに対して斜め45度の、ハヤトの横に座ってる。
 ただ座ってるだけで充分だった。
 ものすごく気持ちが落ち着いて来てるって思う。
 こっそり大きく息を吸って、時間をかけて吐き出した。さっき居間で、眠れないままに無理矢理やってた深呼吸とかより断然ゆったりした気分になる。

 そんな俺を横から見てるハヤトが言った。その声もゆったり落ち着いていた。
「で? そもそも、リュウジはどうして階段上がろうとした?」
「うん?」
 問いかけは突然だった。突然だったから答えに詰まって訊き返す格好だ。
「さっき言ったじゃん。お袋の指輪、階段で拾ってくれた、って。それは階段上がろうとしたから気がついたんだろ?」
「え、ええっ……ああ、まあ、なあ?」
 思わず視線をハヤトの背後のベッドを越えて、その奥の壁に投げてる俺の横顔をハヤトは見てるんだろう。そんな雰囲気を感じてて、いくらか慌てそうになった。
 けど、直後に思った。慌てることねえんだ、って。
 取り繕ったり言い繕ったり、そういうのって要らねえし。
 そうしたところで、いっつも最終的には白状させられんだし。
 まったく、ハヤトって巧いんだよな。訊き方っつーか、丸め込み方っつーか。
 だから切り出すことにする。
「あのな、ハヤト」
 逃げも隠れも出来ると思えねえし、そもそもどっちもする気は皆無だった。
「うん」
 ハヤトが応えてくれたから、さらに俺も応えて視線を向けた。
 そしたらハヤトはふわっとした表情で俺を見ていた。
 うわ。こいつ、さっきからずっとこんな顔してたのか? どうしたらいいんだか解んねえままで壁とか見つめてた俺のこと、こんな目で見てた……の、か。
 どきっ、とする。
 きゅうっ、とする。
 言おうと用意してた言葉が一瞬固まるみてえな感じがした。

「あの、な、あのな?」
 それでも言うこと言わねえと。そう思ったから、何とかしようと頑張った。
 そしたらハヤトがにいっと笑って言ってくる。
「リュウジ、眠れなかったんだろ?」
「お、おう……まあ、そんなん、って感じってことで」
 認めるしかなかった俺に対して、あはは、って声を出してハヤトは笑ってる。
 すっかり読まれてる俺は不思議やら照れるやらで、つい拳を握って、ついそれを振り上げて、つい大きい声なんか出しちまう。
「って、お前!!! そんな笑うとこじゃねえだろって!!!」
「ああ、ごめん。でも、想像してたリュウジそのものだったから」
「何だよ、想像ってのは!!!」
 俺の勢いを制止する気で出したと思われるハヤトの掌を、ぐっと寄せて手首を取った。
 もう片っぽの手は拳を握ったままだけど、まあしょうがねえ。ってこいつも思ってるはずだからいいだろ。
 それでもハヤトは至近距離から俺を見上げて、俺の全部を溶かす気でいるんじゃねえかって思えるような顔してこんな言葉を持ってくる。
「想像っていうか、願望、のが近いかな。オレ、リュウジが眠れないといいって思ってた。だからそういう念をね、実は送ってたんだ。下の居間に向けて」
「ええ、っ? 俺が眠れねえといい、ってのか? 何でだよ」
 言いつつ両手の力が抜けてるのが自覚できてた。握ってた拳は半端になってて、ハヤトの手首を捉えてた方も弛んでる。
 それと知ってか、ハヤトの顔がさっきよりかもっともっと緩んでる。
「リュウジは眠れなかったらオレの部屋に戻ってきてくれると思ってたから。その方がいいな、って。だってオレ、今夜はリュウジと一緒に眠りたかったから」
「って、ハヤト……」
 手だけじゃなくって俺の体の全部の力が抜けたのは、絶対ハヤトに釣られたからだ。
 そうとしか思えねえし、そうとしか思いたくもない。って思った。
 もどかしくてキスをした。
 想いの全部を言葉にすることなんて到底出来ねえけど、ちょっとでも伝えたくって。
 言葉に出来ねえ想いがどっかに消えるのがもったいなくって。
 それか、ただ単に離れていたくなくって。
 だから俺はハヤトの唇を塞いだ。
 
 深夜の静けさ、音のない部屋。
 軽いキスの後、ハヤトの額が俺の額にこつんとぶつかる。
「落ち着いた?」
「おう」
 訊かれて答えて、至近距離で目を合わせる。
 顔が離れてく前にハヤトはもっかい唇を俺の唇に近づけて、掠るだけのキスをくれた。
 でもってハヤトはにっこり笑ってこう言った。
「リュウジ。落ち着いたんならもう眠れる?」
「ああ、もういい加減真夜中だしな。言われてみりゃ眠くなって来たぜ」
「ん、OK。それじゃそろそろ寝よう」
 おう、と頷いて、俺は立ち上がった。
「だな。ぼちぼち寝っか。んじゃ明日、朝起こすからな。おやすみ、ハヤト」
 座ってるハヤトの頭に手を載せて、言ってから部屋の扉に足を向ける。と――
「え。リュウジ、どこ行く?」
「どこって、居間だ。俺、今日は下で寝るって言ったし」
 そう返したらハヤトはもう一度、え、って顔をして、その後、ああ、って顔になって、さらにそれから俺の目を見上げてちょこっと笑った。
「もう、いいじゃん。ここで寝れば」
「いや、そうは言ってもな? 俺、一度言ったこと撤回すんのは主義じゃねえし」
「ほんとに堅いよな、リュウジって」
「ちきしょう。堅くて悪かったな」
「あはは。悪くない悪くない。むしろそこが好き」
 って、何をさらっと言ってんだよもう!!!
 でも、俺も一緒っつーか。
「お前は軽すぎんだよ。あーあ、しょうがねえよな、俺も。そういうハヤトが好きだとか」
 さらっと言えたかどうかは甚だ疑問なんだが、ついうっかり言いたいのを抑えられねえ気分だった。


 とりあえず持ち出した毛布だけは回収しねえと気が済まないって主張したら、やっぱり堅いって感想された。
 堅くて結構、って言っといて、一旦階下の居間に戻った。
 枕にしてたクッションをソファーに戻して毛布を持って、念のため寝室の戸の前に立って親父さんの気配を確認して、大丈夫だなって安心したとこで階段を上がる。
 扉の向こうのハヤトの部屋は、天井の豆電球と机んとこの電気スタンドだけになってて薄暗い。
 ハヤトは早々にベッドの奥側に収まっていて、戻った俺を手招きしてる。
 ええっ、俺、どうすんだ? ハヤトのベッドで寝ていいのか? やっぱ押し入れから布団借りて敷いたほうが良くねえか?
 って、迷ったのが伝わったようだ。
「リュウジ。一緒に寝よう」
 ハヤトは俺を小声で呼んで、掛け布団を持ち上げていた。
「いや、けど。さすがに拙くねえか? 明日の朝、親父さんに見つかったりしねえかな」
「それは大丈夫。親父、わざわざオレを起こしてくれようなんて気にはならない人だし」
「そう……か?」
「ん」
 なら、いいのか? いいってことにさせてもらうか。だって、せっかくだし、なあ。ってことで。
「んじゃ、お邪魔するか」
「おいで」
 持って帰って来た毛布を布団の上に広げて掛けてからハヤトのベッドに潜り込んだ。
 あったかくって幸せになる。だから一緒にベッドに入るのって特別なんだよ、な。

 体を寄せ合って布団にくるまってるだけで安心できる。
 あー、これは熟睡できそうだ。
 俺の肩んとこにハヤトの頭がある。くすぐったいけど嬉しくて、何だか頭、撫でてたいとか思ってたら……だ!!!
「え、いや、ちょ、っ……!!!」
 いきなり腰に手が来た。相次いでハヤトの足が俺の足に絡んでくる。
 うわあ、やべえって!!! そんなつもりじゃねえのに、何か、そんな、なる、っつーか。
 じくっ、と反応しちまう、だろ?
「何、だよ……っ、ハヤト、寝るんじゃねえ、のかよ!!!」
「うん。もう寝る」
 耳許でこそっと囁かれた。それにすら過剰に反応しそうで困る、っての。
「でも、ちょっとだけ」
「い、いや、ちょっと、って――ぅ、あっ……」
 結局俺はハヤトに翻弄されてばかりいる。
 でも、そういうのが嫌いってわけじゃねえらしい。
 思えば今日は居間で寝るって宣言したのって、さっきこんな流れになりかけてたのが原因だったんだって今更思い至るんだが。そんな場合でも、ねえ、ってか。
「ん、な、いい、から……触んな、くっ、て……!!!」
「ん。いいから。触る」
「お、お前、訳わかんね……ぇ、し――」
「うん。オレも訳わかんない。でもリュウジと一緒だから大丈夫」
 本気で意味わかんねえ。
 本気で反論できねえ俺が一番、意味、わかんね……ぇ、よ――ぅ、っ……。


 触れられて、探られて、吐息して。
 触らせてもらって、名前呼んでもらって。
 堪えらんなくて、名前呼んで。
 一緒に極まった後、俺らはもっかい平和な気持ちで枕に頭を預けてる。
 平和だったからか、今日は結構店が混んだから疲れてたのか、それとも……すっげえ気持ちよかったからなのか。
 どれだかわかんねえけど、ものすごく眠くなっていた。
 小さい電気を残しただけのベッドの上でハヤトが耳許で言っているのを、どこか遠くに行きかける意識の中で聞いている。
「リュウジ。試してみようか?」
「何を試すって……?」
 訊き返してみたものの、何て言うか、すっきりしたから、っつーか、単に眠いからなのか朦朧としてる。
 そんな俺に対して、ハヤトは不思議としっかりしてたように思えた。俺のがハヤトよか先に眠りそうになってるのって、そうそうねえよな。
 寝入り端の、浅い眠りが見せる夢とかじゃなかったら、こんな返事をもらったらしい。
「さっき考えてたんだけど。明日のプラン。一緒に見て回って、気に入ったのがあったら、買おう」
 うん? 買うって何をだ?
 恐らく、いや確実に、これは思っただけだった。訊けてねえ。
 ちゃんと言わねえと、って覚醒の隅っこにある意識を持って来ようとするけど巧くいかないままの俺の唇に、あったかくてやわらかいのが触れた。夢じゃなかったら、いや夢だとしても相当嬉しい。

 俺の唇のごく近くで空気が動いた。
「約束の意味の指輪がどれだけ大事か、試してみよう。揃いのを、お互いのために買って、贈りあったらわかる気がする」
 うわ、それ、って……すげえんじゃねえか?
 俺、どきどきしすぎておかしくなるんじゃねえのか?
 夢うつつで俺は何て返事したんだか、全然定かじゃねえ。
「え、リュウジ、なに? ああ、中華街。ん、OK。手頃な雑貨屋ありそうだ」
 ハヤトの顔が見えなかったのは、俺が目を瞑っていたかららしい。
 でも額にキスされたって気がする。
 そして、優しい声が俺を甘やかしてくれた。
「おやすみ、リュウジ」
 朧気ながらに覚えているのはここまでだった。
 こっから先は確実に全部、奔放で辻褄合わない、夜ごと見る夢、だ。


   * 完 *


《戻ル》 * 《最初》


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