promise 《6》
ハヤトの部屋に落ち着いたところで、俺から訊く前にハヤトが言った。
「ちょっとね。落ち込んでるんだ、親父」
「まあ、そんな感じかなとは思ったけどな」
淹れてもらったコーヒーに口をつけて、小さく頷いて見せる。
「深刻なのか? ……って、ああ、いや、そうじゃねえっつーか!!! その、立ち入ったこと訊く気はねえんだぜ?」
軽い気分で切り出して、思い直して言い訳してる。
だよな。いくら俺らの仲だとしても、家のあれこれっつーのはあんまり、こう、何と言うか。ってか、俺らの仲ってのもアレっつーか!!!
勝手に言って勝手に思い直して、その上それに我ながらぎくっとしたりして、たっぷり中身の入ったマグカップをテーブルに置こうとして、ちょこっとこぼした。
「うわあ、悪い」
近くにあったティッシュの箱を放って寄越してくれながら、ハヤトはごく軽い感じに笑ってた。
「あはは。何をそんな慌ててる? 大丈夫、大丈夫。実のところリュウジがそこまで心配するような話じゃないから」
「そうか?」
ハヤトの顔色伺いながら返したら、軽く笑ってからこう続けてくれた。
「うん。少なくともオレはそんなに心配してないし。だからリュウジも心配しなくてOK」
「おう、んじゃ大丈夫なんだな? ……ほっとしたぜ」
なんかすっげえ安心した。
ハヤトが『OK』って言うと、それだけで本気で万事OKって思えるんだよな。
そもそもハヤトと親父さんがさっきうちの店で晩飯食ってたのは、予定通りの行動だったんだと聞かされた。
「それで、昇龍軒に行く直前にお袋から電話がかかってきて。そこが分岐点」
「電話っつーことは、ハヤトの母ちゃん、出かけてんだな?」
「そう。学生の頃の友達と一緒に出かけてるとこ。日帰りでもいいくらいの近場だけどね」
「おう、なるほど。だからうちで晩飯だったのか」
ん、とハヤトが頷いた。
「親父が今日はどうしても味噌チャーシューの気分だったって。さっきオレが帰るなり言い出したんだ」
「そりゃ毎度どうもな」
「いやいや。こちらこそいつもごちそうさま」
店の人間とお客の気分でお辞儀しあって、顔を上げたら目があって、ふたりしてぷっと吹き出した。わはは。なんか本気で気持ちが軽くなってるぜ。
「で、それはそれとして。親父のことを気にしてくれてるリュウジには説明しとかないと」
笑いを納めて座り直したハヤトが俺に真っ直ぐ視線をくれた。
真っ直ぐ、ではあるけど、さっきの言葉通り深刻って感じはなかったから安心しつつ耳を傾ける。
「さっきも言った、きっかけのお袋からの電話ってね。昨日からの流れと偶然かぶる話で」
「お? 昨日から、って何だ?」
「ほら、あったじゃん。騒ぎ。指輪の」
「指輪って、あれか――?」
「そう。例のアレ」
こくっと首を縦に振って、ハヤトは両手で包むようにして取り上げたマグカップに口を寄せる。
くっ、負けてる気がする。こんな何てことねえ仕草なのに、何でこんな格好いいんだ?
……つーのはまあ、置いとくことにする。指摘されたらたまんねえし。
カップの湯気の向こうで細められた眼がぱちっと開いて俺を見た。
「落としたんだって。指輪」
「ええっ? ハヤトの母ちゃんがか?」
「そう。露天風呂から上がったらなくなってた、って。外した覚えもないのに、気がついたら指から消えてたらしい」
「なるほどな。そんで親父さん、落ち込んでんだな」
「らしいね」
言ってハヤトが俺を見て、ふっと目をを細めた。
無意識に左手の薬指の根っこのとこを右手で弄ってたのを見られたようだ。それに気付いて意味不明にぎくっとなって、右手をマグカップに寄せてった。
うっかり取っ手じゃねえとこ持ったら、やっぱ熱くてちょこっと慌てたのも見られてた。
「何だよ、もう!!! そんな吹き出すことねえじゃねえか。ちきしょう」
「あはは。ごめん、つい」
思わずハヤトに向けて拳骨握ったんだが、ああ、そうじゃねえなと引っ込める。
「いや、じゃれ合ってる場合じゃねえのか。親父さんがあの調子だっつーのに」
「だから、それは全然気にしないでいいって」
「そうもいかねえよ!!! 気にするっての。英語教師もあんなリアクションだったじゃねえか。すげえ大事なもんなんだろ? 結婚指輪ってのは」
またしても思わず拳骨握ってた。今度はハヤトに向けるためじゃなくて、拳の中にぐっと思いだとか主張だとかを込めるため、って言うか。
そんな俺を見るハヤトの雰囲気は、この期に及んでまだ緩い。
緩い原因はすぐに解った。
「違う違う。うちのは結婚指輪じゃないから。だからそこまで神妙になることないんだ」
それを聞いてやっとこ俺も拳を解いて気持ちを緩めた。
「おう、何だ――そう、なのか」
「うん。だから心配かけてごめんって」
「ああ、いや。けど」
安心するには早いよな?
「それにしたって、親父さんにとっては大事なもんだった、ってことだろ? あんな感じになる位のもんだったんだよな?」
「それはそうかも。親父にとっては」
ってことは、いくら何でも俺にだって察しはつく。
「やっぱそうか。親父さんからの贈り物だったんだな。それ、ハヤトの母ちゃんが落としちまった……」
ってことか、って言いかけたところを遮られた。
「そうじゃない。むしろその逆。去年の親父の誕生日の、お袋からのプレゼントだって。ふたり分ペアのやつ。シルバーで透かし模様が入ってて、親父いわく相当かっこいいらしい。さっき聞かされたんだけどね。昇龍軒から帰ってきたあとの晩酌中に」
「へええ。そうなのか」
「そうだって。オレもさっき初めて知ったけど」
そういうことだったのか。
それを踏まえて考えると、親父さんの誕生日に揃いの指輪を贈るお袋さんは、よっぽど親父さんを想ってるんだろうな。
でもって親父さんも、ものすごくその贈り物を大事にしてたってことだろう。
「……ってか、やっぱお前の親父さんと母ちゃんって、すっげえ愛しあってんだな」
「そうかもね。アルコール入ってたけど、親父の話を聞かされてたとき、よくよくオレは外野なんだなって思った。夫婦と息子の間には見えない壁があるらしい」
言ったあとのハヤトは、あはは、と笑った。
まあ、それはそういうもんなんだろう。俺だって自分とこの親同士のあれこれみてえのを根っこのとこで理解してるとは到底思えねえしな。
何となく、俺らの間に静寂が訪れた。
ハヤトが何を思っているのかは解んねえけど、俺は俺で何というか、ちょこっと考えてたりもする。
沈黙してる中でも、いつもながらの居心地よさがあった。
ハヤトと一緒の空間を過ごすってことそのものが俺にとっては一等大事で、一等嬉しいことなのかもな――だとか、ふと思い至ってどきっとしたりとか。
「ん? どうかした?」
「ええ、っ」
いやもう、急に振られたら最大限にどきっとしまくるっての!!!
「いや、何でもねえよ」
「あれ、そう? リュウジ、今すごく考え込んでる顔してたから」
「え、ああ、いや、考えてるってか――まあ」
いきなり図星だったもんで若干怯んだ。
俺って普段、そんな考え込む方でもねえからな。
そりゃ、そのう……時々なんつーか、人には言えねえようなアレとかコレとかが無えってこともねえんだが、今の場合そういうナニじゃねえってか。
よくよく、いや、ちょっとだけちゃんと考えたら、取り繕うことねえんだった。別に今の俺は妙なアレコレとは無関係なことを思ってただけだった。
だから、ありのままを言ってみた。
「ただ、俺にとってはお前と一緒にいるってすげえ大事で、それが一等嬉しいことなんだな、とか考えてただけだぜ?」
「え――」
そしたらハヤトがびっくりした顔で俺を覗き込んでくる。
「何だよ。お前が『どうした』っつーから答えただけじゃねえかよ」
「いや、何、っていうか。驚いて」
ゆっくり話す声が静かだった。それだけじゃなくって、視線がびっくりから柔らかに変わった感じでこっちを向いてる。
「うん? だから、何で驚く……って、ああっ!!!」
訊き返してる途中で気がついた。
俺、今すげえ恥ずかしいこと言った……よな? 何かすげえ、突然、俺らしくねえこと口走ったんじゃねえか?
「う、うわ、いや、何でもねえ!!! い、今の、ちょっと間違い!!! 俺、基本的に考え込んだりしねえし!!! な?」
慌てていくらか大声になって、広げた掌を意味不明に振り回してた。
頬がかっと火照ったのが自分で解る。
そんな俺をハヤトは、また別の感じの目で見てる。
「間違いなんだ。それはショックだな」
そっと言い終えた後、ハヤトの顔が近づいてくる。
近づきすぎて見えなくなる直前のハヤトの表情は、優しすぎる視線を俺にくれていた。
でもって台詞と裏腹の、くすっと笑った形を作ってた唇越しに流れて来る。
――オレはいつでもそう思ってるのに、って。
触れた唇にのっけといた、俺の返事はハヤトに伝わったか?
――やっぱ間違いっつったのが間違い、だから……な?
多分それはきちんと伝わったんだろう。
ほんの短いキスの後、再び静けさの訪れたハヤトの部屋には同じ想いが漂っているような気がした。
ふたり並んでベッドを背もたれにして、言葉も視線も交わさずに座ってる。
手を繋いで、指を絡めて、ちょこっと離してもっぺん握って。
だとか、こんなのやっぱすげえ嬉しいんだよな。照れるから言えねえけど。
――とか考えてたら、俺の隣で空気が小さく震えた。
「ん。オレも一緒」
うわ、俺、今、言ってねえよな? けど、ちゃんと伝わってんだな。
だから今度こそちゃんと言おうって思った。考えたことをありのまま。
「あのな、ハヤト。俺、やっぱ、すげえ嬉しいから。な?」
言葉で答える代わりに、ハヤトは繋いだ手にぎゅっと力を込めてくれた。
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