promise 《4》

 授業がひけていつも通りにハヤトと一緒に学校を後にして、いつも通りのくだらねえ話しをしながら家に帰った。
 今日の俺は夜の営業の開始に合わせて店に出るってことになってたんで、少し余裕があった。
 だからハヤトに『ちょっと寄ってくか?』って訊いたんだが、答えは『ごめん、パス』だった。
 どうやらハヤトは帰宅後速攻店の手伝いってことになってたらしい。
 あいつんとこも繁盛してんだな。
 駅前で別れて少しの距離をひとりで歩きながら、なんか誇らしいような気分だった。
 そんなんを自覚したのは、床屋の前を通りかかった時だった。
 うわ。何だ? 俺、すげえにやにやしてねえか?
 表のガラスに映った自分の面がそんなんだったんで、結構どきっとさせられた。
 ……何だよ、もう。俺は。気持ち悪いだろ。

 店に出るまで時間があったんで、駅前の本屋に寄り道して単行本を3冊買った。
 出たばっかりの新刊と、こないだから読んでる旧作の続刊と、あと、それらに隠してレジに出したちょこっとばっかり……アレなやつ。ハヤトに知られたくねえような部類の。
 まあ、そんなんバレたとしても今さらどうこうって話じゃねえし、それどころかあいつも読みたがるようなアレではあるんだが、一応こっそりしときたい感じのアレで。
 買い物を終えて店の裏から帰宅して、部屋に行って着替えもせずに真っ先に、まずアレなやつのページをめくってる俺。
 うわ――これ。思ったよか、何か……ちょっと、想像すると、いいかも、とか――

 やることやってリラックスしたとこで着替えを済ませて降りてって、洗面所でしっかり手を洗って、ついでに顔も洗ってから店に出た。
 夜の時間の最初の頃は、今日に限らず割と余裕がある。夜とは言っても普通の感覚だとまだまだ夕方に当たる頃合いだからだ。
 晩飯時には早いからそうそう混まねえし、出前の注文もそんなに多くねえ。こんな時間に出前っつったら、大概は雀荘だったりする。
 聞くところによると雀荘に出入りしてるお客の中では、夜も昼もあんま関係ねえらしい。だから従業員のおっちゃんたちも似たようなもんなのか、早めの夕方だとか閉店間際だとかの注文が時たま入る。
 何にせよお得意さんだし、むしろ普通の忙しい時間をはずして――ってのが意図してかどうかは謎だが、注文してくれるのは有り難いことなんだと店主が言ってた。
 確かにそれは一理あると俺でも感じる。
 だって、ピークの時間じゃなくたって、そういう需要があるってのを想定するだけでどっかしら緊張感ってほどでもねえけど、気合い入らなくもねえし。

 件の雀荘から注文があったのは、今日に限って7時手前のことだった。
 珍しく、ってわけでもねえんだろうけど、ぼちぼちのお客の回転が良くなる時間の出前依頼だ。
 チャーハンセットと五目焼きそばと酢豚定食、担々麺を二人前。それらを支度して、たまたま手すきだった俺が外へ出ることになる。
 よっしゃ、とばかりに岡持に店の心意気を詰めて出前用のカブを駆り出す。
 駅裏にある雀荘までは、本当はカブを動員するまでもねえ距離ではあるんだが、店主についでを頼まれていた。
 今日はいつもよか昼時の出前が多かったらしくて、主に駅裏方角の器回収が間に合ってねえそうだ。
 せっかくだらから三丁目のあそこと五丁目と、川向こうの工場へ行ってこ来いだと。
 そんだけじゃなくて、俺んとこの学校にも、だと。
 知らなかったぜ、俺。
 昼飯時にそこにいたのにな。
 職員室で、うちの店から出前取った教師がいたんだ、っての。
 まあ、別にいいんだが。っつーよりか、うちのお客なんだと思ったら有り難いってわけだし。むしろ知ってたらちゃんと挨拶のひとつもする用意が無くもねえし。
 ってか、そうか。その辺、店主の想像外か。
 まさか今日に限って俺が昼休みに呼び出し喰らったとか、思いもしねえってことか。
 ……そこらは店主が俺をある程度信じてくれてるっつーことなのか?
 いつもだったらつまんねえ事で呼び出されて、つまんねえ事でお目玉喰うことも無きにしもあらず、なんだけどな。わはは。

 注文の品々を雀荘に届けて、店のおっちゃんにお代もらって挨拶をして。
 でもって、三丁目から五丁目に、次は川向こうへとカブを走らせた。
 出前のち器回収の任務を全うするために俺は走る。
 けどまあ、実際のとこはそんな深刻な使命感とかじゃねえっつーか。
 単に、それなりに楽しめてたりもする。
 広いわけでもねえこの町のあっちこっちに、うちんとこの店の出前需要があるのを感じるのって張り合いもあるし。 
 通りかかった街角で、うちんとこのとは違うと一目で解る別のラーメン屋の器が時たま見えるのも――いや、タイミング的なことかも知れねえけど、この『時たま』ってのがツボで。
 基本的にうちの店のが盛り上がってんのかな、だとか。
 見かけた器の他店の味って、どんな感じなんだ? 今度こっそり偵察行ってみっかな、だとか。
 目の前に明らかに立ちはだかる好敵手ってわけでもねえけど、うちの店にもあるんだな。
 因縁なのかどうなのか、商売敵ってのが。俺らと奴らみたく正面切って闘うことはねえだろうが、ある意味縄張り争いだよな、こっちも。
 そんなこんなで町中をぐるりと回って最後に俺らの学校まで行って、教員用昇降口で丼その他の器を回収してたら、居残っていたらしい用務員のおっちゃんに『どうもご苦労さん』って挨拶された。空の器のうちのひとつは、そのおっちゃんが平らげたんだって言ってた。

 空っぽの器で岡持を満杯にしたとこで、やっとこ店に戻ることになる。
 店の脇の定位置にカブを駐めて、裏口から持って入った器を洗い場に預けたとこで、あれ? と気付いた。
 不思議な感じだった。
 目で見て頭で理解して気付いた、ってよりも、目に入った瞬間に脳味噌よか先に心臓が反応したからそうと解った、とでも言うか。
 何だろうな、こんなん。
 よく解んねえけど、やっぱどきっとするわけで。
「あ、リュウジ。おかえり。出前だったって? ごくろうさま」
 レジんとこで会計してた青い頭が振り向いて、にっと笑顔を俺に向けてくる。
 あー、もう。不意討ちかますなっての!!!
 それでもどうにか取り繕って、普通っぽく――普通『っぽく』ってのそのものが不自然だとは思うんだが、それはそれでしょうがねえ、とか思いつつも聞き返す。
「おう。来てたのか」
「ん。今まで晩飯させてもらってたとこ」
 いつも一番近くにいて一等いい顔見せてもらえてる間柄なのに、予想外にそれをもらえるってのに案外弱いらしい。
 店にいる身内の手前、どういう顔していいんだか悩んでた俺にハヤトがさらに笑いかけてくる。
「あはは。何、そんな困った顔してる? 眉間に皺寄ってるし。リュウジ、心配いらないよ。遊びに来たんじゃなくて、単にごちそうになってただけ。もう帰るとこだし、忙しい時間の昇龍軒の邪魔をしようなんて思ってないから」
「いや、そんなんじゃねえって!!! 何も困ったことなんてねえっつーの。まったく、もう」
 くくっ、と喉の奥で笑ってるハヤトの額を軽く握った拳でこつんと突いてやった。
 あくまで普通の意味でハヤトと俺の気の置けない間柄を知ってるバイトの大学生の兄ちゃんが、レジ打ちしながら大らかな感じのにこにこ顔で俺らの会話を聞いていた。
 会計を終えたハヤトに釣り銭渡しつつ『毎度あざーっした』と、これはこれで顔見知り同士の軽い挨拶を向けてから、バイトの兄ちゃんは洗い場に入ってく。

 それへ手を振ったあとのハヤトの声が向いたのは、俺にではなくカウンター方角だった。
「ほら、親父。帰るよ?」
 何? 親父さんだと?
 ハヤト、ひとりで来たんじゃなかったのか?
 つられてハヤトの視線を辿ってみると、確かに座ってる。
 カウンターにいるその人物は、何だかいつもと調子が違う感じがあった。
 普段なら仮にそこらの八百屋で遭遇した程度だって、深みのある声で俺の名前または肩書きを呼んでくれるだろうに、今の親父さんは声ひとつ出さずに俺に背中だけを見せていた。
 俺は思わず声を出す。
「ええっ、親父さん、いたのかよ? 覇気ねえからわかんなかったぜ。ってか、どうしたんだよ、ふたりして。ハヤトんちの晩飯っつったら、料理上手の母ちゃんの独壇場じゃねえのか? うちの店とか来てる場合かよ。わはは」
「あ、リュウジ、悪い。今それ、ちょっと禁句って感じだから」
「ええっ……?」
 ハヤトに言われて、あわわ、ってなったんだが、今さらその禁句ってのを撤回できるもんでもねえ。だからって、悪い、だとか言うのも、何が悪かったんだか理解できねえ以上は説得力皆無なんで、どうにもなんねえっつーか。
 俺は若干慌てつつ、かつうろたえつつ、カウンター席を立った親父さんの姿を見守る以外に出来ることはなかった。
 出口近くにいた俺の前をのっそり歩いて通り過ぎる時、親父さんはこんな挨拶をしてくれた。
「悪いな、気分が盛り上がらなくて。味噌チャーシューはとんでもなく旨かったのに。それを巧いこと感想できないのは申し訳ないんだが、昇龍軒の倅どのには今日のところは大目に見てもらえるとありがたい」
「お、おう……そりゃ、まあ、何てことねえけど」
 何というか、何とも言えねえっていうか。
 いつも気楽な口調で俺に接してくれる親父さんとは、やっぱりかなり違っているように思えた。
 だからって詮索できるような具合でもなかったから、この場はここで終了となる。
 俺は俺で厨房からお呼びが掛かったし、親父さんはそのまま店から出てったし、ハヤトは一瞬俺に右手を挙げてから親父さんを追いかけて扉の向こうに駆けてったし。

 そっから店に出ている間、そのことがずっと気になってた。
 たとえて言うならこっぴどい風邪をこじらせた家族や仲間を心配する気分に近い感じで、気持ちの隅っこハヤトの親父さんの元気なさそうな表情が脳裏にある。
 調理場で店主の補佐をしている時も、洗い場で片付けものをしている時も、テーブル拭いてる時も、再三の出前に出た時も。
 そうこうしているうちに閉店時間を迎えた昇龍軒だった。
 暖簾を片付け終わった俺は、賄いをそれなりの勢いでかきこんでから部屋に上がる。
 店の名入りの上っ張りを脱いで玄関を出た。
 深夜に向かうこの時間、いつもの連中と集まる河川敷とは訳が違うってのは重々承知だったから、排気音のやかましい単車は出番なしってことにして自転車で道へ乗り出す。
 北口から向こう側へと駅構内を突っ切ってく。
 南口に出たとこで見上げた夜空は、思いの外明るい月夜だった。
 往来を走る車の姿もないものの赤信号に止められた俺は、それに気付いてちょっとだけ得した気分になっている。


  


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